字幕翻訳者・戸田奈津子さんの翻訳について考えたこと(5)(最終回)

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これまで、戸田奈津子さんの翻訳について検証してきた。
誤訳・珍訳と呼ばれる翻訳の原因として、
(1)現地での経験(経験値)の少なさによる知識不足
(2)制作スタッフや視聴者との年齢差が広がったことによる感覚のずれ
(3)新時代の到来に伴う変化への対応の遅れ
(4)多忙なスケジュールで専門外の仕事や急ぎの仕事を引き受けたことによる不備(うっかりミスを含む)
などの可能性を考慮してきた。
しかし、このようなミスが見つかったからと言って、戸田さんの長年の映画界への功績が薄れるわけではない。私達は戸田さんの訳を通じて、英語・映画の最初の手ほどきを受けた。私が英語の「え」の字も知らない頃から、戸田さんは第一線に立ち、英語・映画の世界へと私たちを誘い、伝道師のように多くの人々に洋画のすばらしさを伝え続けてきた。
どうすれば日本人の心に映画の感動を伝えられるか、情熱を持って工夫と苦心を重ねてきた努力には頭が下がる。
私のように技術翻訳を生業にしていると、海外に住んでいて他にできる仕事がないとか(←私も最初はそうだった)、特に翻訳に興味があるわけではないのだけれど、他の分野でネイティブの英語スピーカーと肩を並べても太刀打ちできないとか、そういう消極的な理由で翻訳をやっている人も多い。機械翻訳にちょっと毛が生えた程度のガチガチの「置き換え」翻訳でも十分と思っていて、質とか読みやすさなんて一向におかまいなし、という同業者があまりにも多いのである。
そんな惰性で仕事をしているような人たちに囲まれていると、何十年も仕事への情熱を失わずに第一線を走り続けてきた戸田さんはやっぱり偉大だと思う。すごい持久走だ。戸田さんご自身にそのような情熱と愛情があったからこそ、限られた字幕スペースの中でも、観客の心を動かすような表現を生み出すことができたのだろうと思う。惰性で投げやりな仕事をしているような人の翻訳を見ても、誰も感動しない。
字幕翻訳は、本当に特殊な世界だ。
私自身、専門外であるにもかかわらず、アメリカにいると日本語ができる人材が不足しているせいか、たまに社内研修用ビデオの字幕翻訳のような仕事を任されることがあるのだが、字幕翻訳は普通の文章を訳すのとは全然勝手が違う。
何分、何秒、ミリ秒という単位でコマ割りされたスペースに文字を入れていくのだが、端折っても端折っても字余りになってしまう。目の前一杯に広がる光景を、一握りの言葉で伝えなければいけないもどかしさ。全部を伝えたいのだけれど、全部は伝えられない。必然的に、何を優先的に伝えて、何を削ろうか、ということになる。
冗談などは、他愛ないしゃれ(ひっかけ)や文化的な風刺が含まれていたりするので特に大変。日本語と比べて英語の語順がひっくりかえっているようなときも、できるだけ英語と同じタイミングで笑ってもらえるように、語順を調節しなければならない。かなり熟練したスキルと経験が必要になる作業だ。ひらめきや直感なども総動員して、ぴったりの表現を探すことになるだろう。映画には生きた英語がそのまま使われているため、最新流行のスラングや若者の言い回しにもついていかなければいけない。そんなことを考えると、たった数文字の字幕の裏側に、どれほどの翻訳者の思いが込められていることだろうか、と思ってしまうのだ。
だからやっぱり私はこの偉大な先人にあらためて拍手を送りたいと思う。近年は時々叩かれることもあるようだが、一生の大部分の時間を字幕翻訳に捧げてきたという、映画への情熱と愛情は、称賛に値するものだと思うし、戸田さんの努力の結晶である1,000作近い作品を通じて、私たちはずいぶんと知らない世界を垣間見せてもらうことができた。本当に長い間、ありがとうございましたと言いたい。
戸田さんに続く優秀な字幕翻訳者が、このレガシーを引き継いでくれることを切に願う。
(個人的には、戸田さんを時々批判している映画評論家の町山智浩さんなんか、後継者として適任なんじゃと思うのですが、どうでしょうかね~)。
お読みいただいて、ありがとうございました。

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