北海道生まれ。

子供の頃は、ピアノとぬいぐるみと読書が友達だった。

当時も今も、塩鮭とすじこが大好き(笑)。

初めて英語に触れたのは、5歳のとき。

父親が、アメリカ人の女性を英語の家庭教師に雇った。そこから、その先生一家と家族ぐるみの交際が始まる。

家族ぐるみで定山渓温泉に行ったり、お子さんたちを一週間預かったりした。

初めてアメリカ人と「会話」したのも、5歳の時。

両親が留守にしている間に、英語の先生が訪ねて来たのだ。

「ママは、スーパーにかいものにいきました」

英語のえの字も知らなかったので、必死で「スーパー」「ママ」と言い、2本指で歩くジェスチャーをしてみせた。

先生がわかったとうなずいてくれたことが嬉しくて誇らしくて、すばらしい成功体験になった。

「言葉が不完全でも、必死で伝えようとすれば、コミュニケーションが取れるんだ!!」

それから私は、英語が大好きになった。

小学3年生ぐらいの頃から、母親に英語の手ほどきを受けるようになった。

中学校に入る頃には、中学校1年生の英語をほぼマスター。

中学1年のときには2年生の教科書を、2年生のときには3年生の教科書を終えるようになっていた。

特に読解の授業が好きで、ノートの見開きの左側に英文を写し、右側に訳文を書いていた。

発音記号を覚え、英語暗唱大会などにも出た。

ところが15歳のとき、私は初めての挫折を経験する。

アイドル歌手に熱をあげすぎて、高校受験に失敗してしまったのだ(汗)。

第一志望だった札幌の公立の進学校に入学できず、滑り止めで受験したミッションスクールの英語科に行くことに。

この学校は、ほとんどの卒業生が、卒業後は就職か専門学校か、短大進学を選ぶ。

「お嫁さん」候補の同級生が多い中、専業主婦は絶対に向いていないと確信していた私。

家事は下手だし、お茶を出したり、男性にお酒を注いであげたりするのも苦手。

女性としては、不適合品。

ここには、ありのままの自分を受け入れてもらえる場所がない。

どうやって生きて行こう・・・。

世界でたった独りぼっちになってしまった気分だった。

そんな時に出会ったのが、「クマのプーさん」の本。

石井桃子さんの翻訳だった。

クリストファー・ロビンとクマのプー、そしてコブタやイーヨー、ウサギやトラー、カンガ、フクロなどの仲間が助け合って暮らしていく物語。

プーは「ばっかなクマのやつ」だけど、ありのままでみんなから愛されていた。

プーの本を読んだ時、ぽろぽろと涙が出た。

そして思った。

そうだ。いつか私は、原書でプーさんの本を読めるようになろう。

そして世界中に、プーのような友達を作って、自分の居場所を見つけに行こう。

そう決めた私は、それまで以上に英語にのめり込むようになる。

なりふり構わず英語を勉強し続け、その高校で「開校以来2人目」の快挙(当時)で、東京の津田塾大学に合格。

(ちなみに、第一志望だった津田塾大学以外の東京の大学は、全部不合格だった)

私の「自分の居場所を見つける旅」は、こうして始まった。

アメリカ留学

次の転機となったのは、アメリカへの留学。

第一志望の津田塾大学英文学科には入ったものの、シェイクスピアや聖書などを勉強しても、英語を話せるようにはならなかった。

そして英検一級の壁が厚くて、何度か受験しては、落ち続けていた。

何とか英語を話せるようになりたい。

そんな折、父のお友達のお医者さんから、その方のお友達のアメリカ人医師の家にホームステイしないか、というお誘いが。

「はなちゃん、英文科だろ。ホームステイしたいなら紹介してやるよ」と言ってくださったのだ。

クマのプーさんにはまっていた私としては、選べるならイギリスに行きたかったが、アメリカとかイギリスとか選り好みしている場合ではない。

「成人式の着物はいらないから、その分のお金で留学させて」と父親に頼み込み、テキサス州ヒューストンの、そのお友達の家に一ヶ月滞在させてもらった。

初めてのアメリカは、想像以上にスケールが大きくて、圧倒された。

「13時」を「3時」と間違えたホストファミリーのお迎えが遅れて、空港で泣きそうになりながらたった一人でホストファミリーを2時間も待つアクシデントもあったが(笑)、ESLの集中英語コースに一ヶ月通い、日本に帰国する頃には、すっかりアメリカにはまっていた。

聴き取りができるようになってきた矢先に、日本に帰国しなければいけないのが、本当に残念でたまらなかった。

そこで、翌年から一年間、アメリカの大学に留学しようと決意。

TOEFL対策の英語学校に通い、自分で出願書類を取り寄せ、ヒューストンのホストファミリーの家から通える大学に応募。

幸いにも、ヒューストンのセントトーマス大学が合格通知をくれたので、翌年から一年間、セントトーマス大学に通って、現地のアメリカ人と一緒に授業を受けた。

期間限定でアメリカに行くので、英語に専念するために日本語を一年間封印しようと決めた。

滞在して三カ月目でラジオ番組が聴き取れるようになり、自分の世界が開けていくのを感じた。

大学では、アメリカ史と世界美術史とピアノのクラスを選択。

寝る間も惜しんで英語を勉強したが、日本で勉強してきた英語の10倍ぐらい難しいと思った。

一方で、「英語を読まなくても単位が取れる」という不純な動機で取ったピアノが(笑)、意外にも高評価。

5歳から続けてきていた実績が評価され、「ピアノを専攻するなら奨学金を出してあげる」とのオファーをいただく。

津田塾→セントトーマス大学に編入→音楽専攻でアメリカの大学を卒業、というシナリオも悪くないと思ったが、ピアノを毎日練習する根気がなかったので丁重に辞退。

一年間の留学を終えていったん日本に帰り、津田塾大学を卒業してから、あらためてアメリカに戻って来ようと決めた。

この時期、英語だけでなく、自分の人生は自分で切り開いていいんだ、ということも教えられた。

友人に言われた、”You are the only person who can make yourself happy”(あなたを幸せにできるのは、あなただけ)という言葉は、今でも折に触れて思い出す。

帰国後に英検一級を受けたら、一発で合格した。

 

英会話教室での学び

さて、津田塾大学を卒業した私は、すぐにでもアメリカに戻りたかったが、資金もないしビザもない。

とりあえず、日本の企業に就職して留学資金を貯める必要があった。

貿易会社に内定をいただいていたが、お茶を入れたり事務の仕事をこなす自信がなく、辞退。

全国チェーンの英会話学校に主任講師として採用してもらった。

英会話学校での仕事は、駅前でティッシュ配りを手伝ったり時間も不規則でハードだったが、今思えば非常に勉強になった。

普通の学校と一番違っていた点は、英会話学校ごとにノルマがあり、生徒さんに来てもらうためにスタッフが必死で宣伝や営業をしていたことだ。

つまらない授業をすると、生徒さんが辞めてしまうので、気が抜けない。

シビアな世界だった。

ここで私は、教育業はサービス業であり、生徒さんに楽しんでもらうことがいかに学習継続の鍵になるかを徹底的に叩き込まれた。

生徒さんに奉仕するという姿勢を教えられたことは、教師としてその後のキャリアを築くうえでとても役に立った。

サービス業という意識は、後に翻訳者になってからも大いに役立った。

大きな収穫だったと思う。

アメリカの大学での日本語教師体験

留学資金が貯まったらすぐにでもアメリカに戻るつもりでいた私だが、残念なことにお金は全然貯まらなかった。

留学中に知り合ったボーイフレンド(現在の夫)との国際電話代に、月10万円を費やしていたからだ(汗)。当時は国際電話代が異常に高かった。

英会話学校の給与では全然足りず、添削先生のバイトなどもしていたが、電話代が高すぎてお金が貯まらない。

そんな折、英字新聞に「日本語教師養成講座」の募集が出ているのを発見。

アメリカの大学院で大学院生として学びながら、日本語を教えるティーチングアシスタントになれば、お給料もいただけて授業料が安くなる。

こんないい話はない!

・・・と、私は即座に応募。

幸いにも合格することができ、資金はないがアメリカで働きながら大学院で学ぶ、という方法で、アメリカに戻ることになった。

こうして私は、一年とちょっと務めた英会話学校を退社。

函館市とジョージア州で一か月ずつ研修を受けた後、希望していたテキサス大学オースティン校に派遣された。

オースティンは、本当に過ごしやすい街だった。

何よりも気に入ったのは、のちにできた”Keep Austin Weird”(オースティンを変わった街として維持しよう)というスローガンからもわかるとおり、オースティンが個性を大切にし、「変な人」を大歓迎する街だったことだ。

不適合な自分でも、ありのまま受け入れて歓迎してもらえる街。

居場所のなさを感じていた私にぴったりではないか!

オースティンに骨をうずめたいと思うほど、この街が好きになった。

大学院に進学はしたものの、最初は専攻が決まらずアジア研究科に入学。

のちに、英会話学校の勤務経験を生かして教育学部に転入し、教材開発を専攻することにした。

大学院に通いながら、アメリカ人の学部生に日本語を教える仕事は本当に楽しかった。

学生生活も楽しく、このまま日本語を教えられるなら、このままずるずると修士号から博士号に進み、ずっと学生を続けたいと思うほどだった。

できれば日本語講師になって、ずっと教えたいと思ったが、私が卒業するときあいにく日本語講師の欠員はなかった。

オースティンが居心地のいい、大好きな街だと思うのは私だけではなかったようで、オースティンに残りたいと思っている人はたくさんいた。

オースティンを離れたくがないために、高学歴なのにピザの配達員をしたり、自分の専門とは違う仕事をしている人もいるほど・・・。

アメリカ人にもそれほど人気の高いオースティン。学生ビザが切れた後もここに残る方法は、残念ながらなさそうだった。

大学院修了後、目標を見失った私は、前述のボーイフレンドとは別のアメリカ人男性と結婚し、その男性と日本に帰国。高知県で英語を教えることになった。

(大学院修士課程修了時。進むべき道が見つからずに迷走していた頃)

ひょんなことから出会った「翻訳」

結婚して高知県に移り住んだ私は、地元の中学校で英語を教えたり、英会話学校で教材開発を担当したり、英検の二次面接官の仕事をしたりしていた。

それなりに楽しい時もあり、周囲は優しくしてくれたが、結婚の理由が「主婦をやってみようと思った」というものだったので、うまく行くはずもなく・・・。

自分らしく生きることから逃げている時期だった。

「普通の人間」「普通の女性」になりたかった。

今思えば、普通に「なる」と考えること自体、普通ではないのだけれど、当時はその矛盾にも気づいていなかった。

2年間の高知滞在を終えてアメリカに戻り、当時の夫を支えながら大学院博士課程に戻るも、一生のキャリアとして何をしていいかわからない時期を過ごす。

博士課程に籍を置きつつも、将来的に教授になって論文を書いて学会で発表をしている自分の姿は、想像できなかった。

教育の現場で生徒に教えたり、生徒と接するのは大好きだが、「派閥」とか「上下関係」とか「コネ」の中でうまく立ち回るのは、自分には向いていない。

この時期、テレマーケターや特許翻訳のチェッカーなど、色々と他の仕事にも手を出してみた。

家事が苦手なので日本食のレストランで働くことはしなかったが、在外邦人が外国でする仕事は、ひととおりやってみたと思う。

そんな折、日本語教師養成講座で仲良くなったアキラくんが、「はなさん、プレスリリースの翻訳のバイトしない?」と声をかけてくれた。

彼はアメリカの大学院を卒業後、NYの日系新聞社で働き始めたのだ。

「家賃ぐらいにはなると思うよ」とのお誘いを受けて、挑戦してみることに。

この日から、毎日毎日、「今日の一本」と言うメールが、毎朝届くことになる。

(多いときは三本ぐらい来ることもあった)

朝の10時頃に記事が来て、それを同じ日の午後3時ぐらいまでに翻訳して送り返さなければならない。

即日納品で、えらくきつい仕事だった。

しかもプレスリリースなので、概念自体が新しすぎて辞書に載っていないことも多い。

しかし何とか形にまとめて送り返さないと、夕方には日本に記事を送らないといけないのだ。

当時はメールの本文欄にベタ打ちで送り返していたが、時々メールの不具合で、書いていた訳文が急に消えて、パニックに陥ったことも何度か・・・。

結局私は、この仕事を2年半続けた。

今思えば、鬼のような「1000本ノック」だった(笑)。

だが、この仕事が継続的に来ていたおかげで、翻訳者としてこういう生き方もあるのかもしれない、と思うことができて、教授という仕事への未練を断ち切ることができた。

2年終わる頃には、IT分野の翻訳会社のトライアルに、簡単に合格するだけの実力がついていた。

そのままATAの認定試験も取得し、私はフリーランス翻訳者として独立することになった。

カリフォルニアへの移住とフリーランス

その後、当時の夫が大学院を卒業したのを機に、ドットコムバブルがはじけていたカリフォルニア・サンフランシスコに引っ越す。

インターネットバブルで、大手企業の本社も多数あるベイエリアには、日本語翻訳者の仕事は山ほどあった。

そこでフリーランスとして、数々の仕事を請けた。翻訳だけでなく、校正やQAの仕事もした。

オンサイトで本社へ行ったり、ダウンタウンで校正の仕事を請けたり。7~8件の仕事を常に抱える翻訳者になった。

お客様から説明を求められることも多く、日本語教師の経験が役立った。

しかしこの頃から同時に、自分らしく生きることから、いつまでも逃げてはいられないという思いが強くなってきた。

環境を変えるために、イギリスの翻訳会社に応募。シニアトランスレーターとして半年ほど働く。

アメリカに戻る頃には、最初の結婚に終止符を打つ決意ができていた。

共稼ぎの状態からフリーランスとして独りで生きて行くことを決めた私は、物価の安いオースティンに一人、舞い戻って来た。

ノマドフリーランス体験の始まり

「オースティンに戻って来ましたので、またよろしくお願いします」と地元の翻訳会社に挨拶メールを送り、一人で自分を支えるために、必死で仕事を取り始めた。

その後、ヒューストンでの最初の留学時につきあっていた元ボーイフレンドと再会し、結婚して一緒に翻訳ビジネスを進めることになった。年収はカリフォルニアにいた時の4倍になった。

この頃からフリーランス翻訳者として日本で暮らすというビジョンを抱き始める。

アメリカ国内のお客さんが多かったが、同じ国・時差のない地域にいるからという理由で仕事をくれる会社も多い。

日本に行っても続けて仕事を送ってくれるかどうかわからなかった。

まだ「ノマド」などという言葉もない時代だ。

そこで実験的に、海外のクライアントを増やしながら、アメリカ国内を転々とするところから始めた。

テキサスの田舎町、アマリロに一年住んだ後、アメリカ本土を離れてアラスカ州フェアバンクスで二年ほど暮らす。

仕事の受注を続けられる目途が立ってきたので、北海道の旭川市に移り住み、小さいアパートを借りた。

それから半年後、一軒家を購入して富良野市に引っ越す。

当時は人里離れた田舎で、人知れずひっそりと翻訳を続け、リタイアするつもりだった。

その当時、富良野市で、翻訳業は私たちだけだった。

ご近所には、不思議な夫婦と思われていたようだ(笑)。

国際結婚しているのに、英会話教室を開く様子もない。

家から出てくる気配もない。

海外の会社との取引があり、時差の関係で昼夜逆転した生活を送ることも多かったから…笑。

富良野での日々は、原点回帰という意味で非常に有意義だった。

父が亡くなるまでの10年間、北海道で暮らせたことも良かったと思う。

そして何よりも日本語力を磨き直すことができたのは、翻訳者として大きかった。

日本にいる間に、20代から長年患っていた病気も、治すことができた。

アメリカに戻ってくるつもりはなかったのだけれど、意識が変わったのは、東日本大震災を経験してから。

人はいつ死ぬかわからない。何が起きるかもわからない。

富良野で早期リタイヤなどとぼんやり考えていたけれど、このまま何となく年を重ねて行ったら、後で思い残すことがあるんじゃないか??

・・・そう思ったとき、「もう一度、ありのままの自分を受け入れてくれたオースティンで暮らしたい」という思いと、子供の時から「著者になりたい」と思っていたことを、思い出した。

人は年をとってから、やらなかったことを後悔する方が多いと聞く。

人生も後半戦。悩んで行動しない時間的余裕は、私には残されていない。

こうして私は、アメリカと日本を往復する生活を送るようになる。

それからほぼ10年・・・社内翻訳者をしたり大学講師をしたりしていた時期もあるが、基本的に日本とアメリカを往復する生活を続けている。

2018年、初の著作となる『写真で見る 看板・標識・ラベル・パッケージの英語表現』を出版。アマゾンの「海外留学対策部門」で一位を獲得。

2019年、日本で翻訳者ワークショップを開始。

2020年、YouTube「ランサムはなTV」チャンネルを開設。

大修館書店『英語教育』にて巻頭連載開始。

2作目『写真と動画で見る ジェスチャー・ボディランゲージの英語表現』を出版。

現在、翻訳者養成講座の準備も進めています。

これからの目標は、「世界のどこかに自分の居場所を見つけたい」「英語(または日本語)を使って、自分の可能性を最大限に活かしたい」という方をサポートすること。

性別・年齢・職業・人種・国籍・肌の色・学歴・家柄・既婚・未婚・子あり・子なし・障害・性的指向・体型を問わず、ありのままの自分として輝きたい人のお手伝いをすることです。

皆様、一緒に楽しく歩んでまいりましょう。

長くなりましたが、お読みいただき、ありがとうございました!!

北海道出身。津田塾大学英文科を卒業後、米国テキサス大学オースティン校で教育学の修士号を取得。同大在学中に、ニューヨークの日系新聞社のプレスリリースの翻訳を始め、実務翻訳者に転身。グーグル、マイクロソフト、デル、インターコンチネンタルホテルなど、一流企業が日本に進出する際に、商品やホームページを日本仕様にする(ローカリゼーション)仕事で高い評価を受ける。トップトランスレーターとして45社以上のソースクライアント/翻訳会社と契約し、米国、英国、カナダ、ニュージーランド、ドイツ、フランス、アイルランド、ルーマニア、イスラエル、日本などの会社から仕事を受注。ネットさえあればどこでも仕事ができる利点を生かし、米国テキサス州、アラスカ州、カリフォルニア州、英国メイデンヘッド、北海道旭川市、札幌市、富良野市など、さまざまなところで暮す。現在はテキサス州と日本を往復する生活を送る。アメリカの大学で日本語講師も務めた。2018年10月に出版した『写真で見る 看板・標識・ラベル・パッケージの英語表現』(クロスメディアランゲージ社刊)がアマゾンの「海外留学対策部門」で1位を獲得、増刷になる。2020年から大修館書店「英語教育」で巻頭連載「はな先生の街文字探検 from Texas」をスタート。YouTubeチャンネル「ランサムはなTV」も開設。

【取引実績】

Amazon.com、Adobe、Apple、Dell、Dräger、Dyson、Facebook、Franklin Covey、Google、HP、Microsoft、Skype、Twitter、Salesforce、SurveyMonkey、IHGインターコンチネンタルホテルズ&リゾーツ、Bank of America、HSBC、GAP、LL Bean、Levi Strauss、Tiffany & Co.、ロサンゼルス郡、Sony、Dolby Laboratories、Autodesk、GE Healthcare、Merck、Payoneer、Netflix、その他多数

【得意分野】

eLearning、アンケート、人事関連マニュアル、人材育成マニュアル、ホームページ、販促資料、オンラインヘルプ、取扱説明書、プレスリリース、外国語教育、教材開発

【対応可能/使用経験がある翻訳支援ソフト】

SDL Trados Studio 2019, Memsource, memoQ , Wordfast, Passolo, Idiom, SDLX, XTM, Translation Workspace, Catalyst, Wordbee, Smartling, Transit, Deja Vu, Lingotek, Fluency, 

E-CertStamp-438962-21

 

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