【皆様にお知らせとお願い】
本日、生まれて初めてツイッターのアカウントを開設いたしました。
が、開設したばかりで、まだフォローするにしてもしていただくにしても、お相手がおりません。
どなたか、相互フォローしてもいいよ~、という方がいらっしゃいましたら、お知らせいただけないでしょうか?
アカウントは@HanaKRansom になります。
今後、記事の更新もツイッターに連動させてお知らせする予定です(←うっかりしていなければ。汗)
ご連絡をお待ちしております。
それでは、本題に入りたいと思います。
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NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」を、ほぼ毎回欠かさず見ている。
主人公の「はな」の境遇が自分と似ているので、異常に感情移入してしまう。
実は、ブログでは「ハンナ」と名乗っているが、私の本名も「はな」である。
主人公の安東はなが、「はな」という自分の名前が嫌で、「花子」と呼んでくれ、と毎回のように要求するシーンでは、「そうだそうだ!はなと花子とでは大違いだ!」と、1人テレビの前で息巻いている。
私もドラマのはな同様、「はな」という名前が、ずっと嫌いだった。
私が子供だった当時は、「道子」とか「雅子」とか、「~子」で終わる名前が多かった。
「~子」で終わらないとしても、「理恵」とか「美奈」とか、少なくとも漢字の名前をもらっている子がほとんどだった。
自分だけ、なんで「~子」じゃないうえに、漢字ももらえないのか。
しかも、4歳の頃から斜視で眼鏡をかけさせられて、モンチッチみたいな丸刈りで、「はな」という名前の可憐なイメージからはあまりにもかけ離れた、おさるのジョージみたいな「みったくない」子供に育ってしまった。
社会見学や修学旅行などの学校行事でお土産屋さんに立ち寄ると、名前のプリントされたハンカチやコップが売っているのだが、「はな」という名前だけは、どの商品を探しても絶対に見つからない。
同じ名前のお友達に会うこともない。
せいぜい、「くいしんぼうのはなこさん」という絵本に、わがままでくいしんぼうの「牛の花子さん」が出てくるぐらいであるが、これもまた関連付けていただくには、あまりありがたくない話であった。
子供のときには、「鼻水」と冷やかされたこともあった。
昭和の時代、北海道の片田舎である。
お友達と何でも一緒がいい年頃に、人と違う名前を毎日呼ばれ続けていると、やっぱり人格形成にそれなりの影響が出てくるのではないだろうか?
「卵が先か鶏が先か」ではないが、私も相当変わった人間に成長してしまった。
村岡花子さんと同じように、ミッションスクールに入ったが、花子さんと同じく、良縁を見つけるとか主婦になるということにはまったく興味がない。
箔をつけさせるつもりで、親が留学させれば、現地にいついてしまう。
国際結婚をする。
男性と肩を並べて働く。
可憐な箱入り娘を育てたかった(ようである)親は、あまりの暴れん坊ぶりに、「こんなはずでは」と愕然としたようである。
途中からヤバイと思ったらしく、「矯正」しようとして、あの手この手で攻勢をかけるようになってきた。
特に母は必死になって、「普通」がいかにすばらしく、「ほどほど」が美徳であるか、ということを懇々と説いて聞かせる。
そして、普通ではない娘であることを嘆き、親を安心させるために、普通になってくれ、と懇願するのだった。
しかし、「普通になる」というのは、私にとっては何より難しいことだった。
大体、普通に「なる」なんて、どうやったらなれるのか。
本屋に行っても「普通になる方法」を書いた本など、どこにも売っていない。
そもそも、「普通」というのは普通だから普通なのであって、普通の人は、普通になろうなんて意識したこともないのではないだろうか。
それを意識的に普通に「なろう」とすること自体、コンセプトに無理があると思うが、いかがなものか。
普通に「なる」と考えた時点で、すでに普通ではないのだ。
一応努力はしてみたが、普通になろうと意識すればするほど、できなくなった。
そのうち、あんまり努力してもできないので、「普通」という言葉を見るのも嫌になってきた。
反動でますます変になってしまったかもしれない。
私は心の中で思っていた。
「お母さん。
スタート地点から人と違う名前を付けておいて、途中から普通になれと言われたって、そんなの無理ですよ。
そんなに「普通の子供」が欲しかったのなら、「はな」なんて名前、最初からつけなきゃよかったんだよ。
スーパーマリオの「ハナチャン」みたいで悪かったね。
せめて「花子」にしておけば、もう少しまともな子供ができたんじゃないの。」
・・・そんな時代から何十年もたち、今では自分以外の若い世代が「はな」と名付けられているのも見かけるようになった。
「はな」という名前が、市民権を獲得しつつあるようで、嬉しく思う。
長い間恨めしいと思っていた自分の名前が、毎朝テレビで連呼されるのを聞くと、何だか複雑な気持ちである。
同じ名前の同じ仕事の大先輩がドラマで取り上げられるようになったことだし、母も少しは娘の選択を尊重して、いい加減「普通化政策」の手を緩めてくれんかなーと思う。もういい年なんだし。
でも、ともさかりえが演じている富山タキ先生のような厳格な母のことだから、簡単に手を緩めることはないだろう。
そのうち、(近藤春奈が演じる)白鳥かをる子みたいな体型になるな、とか何とか言って、次の攻撃をしかけてくるんじゃないだろうか、と思うと、戦々恐々である。