バウンダリー

/ 翻訳者・著述家

北海道へ帰ってきて、一週間。
品揃えと種類が豊富なコンビニに感激したり、マクドナルドのワールドカップ期間限定の「ジャパンバーガー」を見て、国が一丸となってスポーツを応援できる喜びを思い出したり・・・。
いいなぁ、としみじみ感じる一方で・・・。
アメリカにいるときには問題にならなかった、日本にいるときならではの問題にも遭遇するようになってきました。
日本にいるときならでは・・・と言いましたが、日本の問題ではなく、あくまでも個人的な問題です。
どういうことかと言うと、一言で言うとバウンダリーの問題です。
「バウンダリー」という概念って、なじみのない方もおられると思うので、簡単にご説明しますと、心の中の境界線と言いましょうか、他者と自分を区別する区切りのようなものです。
お家にたとえるとわかりやすいと思いますが、誰も許可なしに勝手によその家のお庭に侵入したりしないですよね?
人間の心の中もそれと同じで、「ここからここまでは自分」「ここから先は他の人の領域だから勝手に入ってはいけない」「その線を越えなければならないときは、きちんと許可をもらって、お互いを尊重する」という暗黙の決まりを守ることで、心地よい人間関係が保てるという考え方ですね。
「ノー」が上手に言える人は、健全なバウンダリーを持っていると言われています。
私は、そのような境界線の区別がない環境で育ったので、アメリカに行って間もない頃、「個を尊重する」という考え方に、非常に衝撃を受けたんですね。
何かというと、「あなたは何をしたいか」と、繰り返し繰り返したずねられる。
これは私にとっては、ものすごく人生観が変わる出来事でした。
それまでは、何をしなければいけないか、ということばかり考えていて、自分が何をしたいかなんて、考えてみたこともなかった。
というか、何をしたいかを考えるなんて、いけないことのような気がしていました。
何か問題があると、家族など身近な人たちがああでもない、こうでもない、と議論して、「こうした方がいいわ」と結論づけてくるのに従っていれば波風が立たなかったので、あまり自分の問題をじっくりと考えるという習慣がなかったんですね。
ところが、アメリカなどの欧米社会では、「あなたは何をしたいのか」と繰り返し繰り返したずねられるので、「うん?私って、一体何をしたいんだろう?」と、一生懸命考えるようになりました。
だって、答えないといけないですからね。
それであらためて自分の内面に向き合っていくうちに、自分は独立した一人の人間で、こういうことを考えていて、こういうことをしたい人間なんだな、ということが少しずつわかってきました。
最初は小さい声しか聞こえなかったのですが、ちょうど使っていない筋肉を鍛えるように、繰り返し耳を澄ませていくうちに、その声が大きくなっていきました。
そうすると、面白いもので、自分は欠陥だらけの問題の多い人間だけれども、その問題すらも自分を形成する要素の1つなのだから、きちんと大切に向き合って解決していこうというような、責任感のようなものが生まれてきたりして。
そうなると、あんなに厄介に感じていた問題がちょっとだけ愛おしく思えたりもしてね。
ほんとに不思議なものです。
英語を勉強して、こういう考え方・生き方があるんだ、と理解できたことは、私にとっては人生が180度変わるような出来事でした。
ところが、このように新しい見方を体得した後で実家に戻ると、昔のままなので、違和感が半端じゃない。
簡単な例を挙げれば「今どこ?駅?じゃあ車に乗ればいいわ」とか「その服はやめた方がいいわ」とか、こちらの「問題」を寄ってたかって一方的に解決してくれようとするのが、「ちょっと待ってよ」というか、庭に無断で踏み込まれたかのような脅威すら覚える。
はたから見ると何とかしてあげたいと思うかもしれないけれども、その「問題」だって私にとっては意味がある課題であって、私が自分で一生懸命考えて、自分で解決しないといけないことだから、お願いだから手を出さずに見守っていてちょうだい、と伝えようとするのですが、宇宙人と会話しているんじゃないかと思うほど、話がかみ合わない。
アメリカナイズされすぎているとか、反応がオーバーだとか、理屈っぽいとか言われるだけです。
その価値観の中で生きている人は、私のことを、アメリカに行って、変わってしまったと思っているのでしょうが・・・
掘り下げて考えると、アメリカがこうだからとか、日本がこうだから、という違いではないと思う。
日本に行ったら日本語を話して日本の習慣に従うのは当然だけれども、それは子供時代に従っていた価値観に戻れということとは、ちょっと違うんじゃないかと思うのです。
もうね、同じ日本語を話しているのに、まったく違う言語を話しているような感じすらします。
この感覚の違い、下手すると日本語と英語の間の差よりも大きいかもしれない・・・。
しかも、むこうは「よかれ」と思い込んでいるだけに、余計にお引き取りいただくのが難しい。
むこうの目には、私は単に「親切な忠告に従わないわがままなヤツ」にしか見えないのでしょうし・・・。
う~~ん。
・・・日本語という同じ言語を話していても、翻訳が必要だと感じるような状況って、人生にはあるんですね。

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「バウンダリー」への 3 件のコメント

  1. SECRET: 0
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    私、通訳の仕事でアメリカのコンサルタント会社に伴って、日本企業に足かけ1年ちょっと、毎月のように通っていた時期があるんですが、そのときに日本企業の担当の2年くらい下の男子に「Akichanさんはわがままだね」て言われたことがあります。え、。わがままってどういうことですか?って聞いたら、自分の希望をはっきり口にすることらしい。お昼はどこで食べましょうか、って言われて、普通、日本人ならどこでもいいですよ、っていうのをお寿司がいいです、とかって言ったり、なんか日本の女性なら、おまかせします、っていうべきのところでおまかせしなかったりするのが、わがままと受け止められていたようです。ふーん。って思いました。

  2. SECRET: 0
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    なるほど共感できます。アメリカって言葉を濁すことがないのでいつも直球で、自分から発しないと何も返ってこないというか始まらないと思うんです。日本はその点、気持ちを察するというか、求められてもいないのに相手に何かやってあげたり、言ったりすることが往々にしてあるような気がします。海外で長年生活している人には余計なおせっかいに見えるのはわかります。

  3. SECRET: 0
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    ブログ気になったので読ませて頂きました☆素敵なブログを見させて頂いて私も頑張ろうと思いました!!ブログ更新楽しみにしてますね☆

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